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こどものためのICT/プログラミングスクール「TENTO」のブログ。情報学習研究所とリンク、国内外のICTやその他の状況をレポートしつつ、TENTOの日々をゆるゆるっとつづります。

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Programming & Presentation for KIDS!

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病状六尺 7

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【病状六尺 7】
身体障害者にたいする行政のケアは、じゅうぶんだと思ってきた。
たとえば、ぼくの義弟は歩けない。
でも、そのおかげで彼は役所に仕事を持ち、障害者仕様の電気自動車を乗り回している。

若年層の就職難が叫ばれる昨今、地方公務員になるのがどれだけ大変か、知っているつもりだ。
足の悪い子だけがハーメルンの笛吹きについていかず、村に残ったように、体が悪いことはメリットにも転じ得るんじゃないか。
障害者にとって障害は武器だ。世の中がどうあろうと、義弟が職を失うことはない。
障害者が職を得て健常者が職を失う。そんなことがあり得ていいのだろうか。

以前に比べ、障害者は優遇されるようになった。
いいことなんだと思う。
でも、上記の例をよく知っている者は、手放しに喜べない。
これは行き過ぎた福祉の典型例じゃないのか。
「多い」と「少ない」。
税の割り振りに関して、ふたつしか選択肢がないとすれば、ぼくは迷わず「多い」を選んだだろう。

その考えを大いにあらためたのが、入院して、はじめて外出したときのことだった。
あまり知られてないかもしれないが、入院患者は自由に外を歩くことができない。
入院患者には集中管理が必要で、集中管理のためには自由に外に出てもらっては困る、というのがその理屈。
病院の外に出るためには、「外出」の許可をもらわねばならない。
そのための用紙もある。

はじめて外出したとき、ぼくは歩けなかったから、車いすに乗ることになった。
そして、驚いた。
世の中には、車いすでは通れない道がずいぶんある。
車いすの存在を考慮せずに作られた道が沢山ある。

ぼくが「じゅうぶんだ」と思い、「多い」と思ってきた身障者向けの福祉予算は、断じて多くはなかったのだ。
もちろん、身障者はマイノリティだから、税をふんだんに使えばいいとは思っていない。
限られたお金をどう使うかは、議会で決めなきゃいけないだろう。
でも「多い」か「少ない」かを問われれば、今は「少ない」と答えるにちがいない。
すくなくともあの道は、身障者福祉が取り沙汰される文化国家の道ではない。
今は、そう思っている。



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病状六尺 6

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古来より、街道筋の女にゃ気をつけろと言われる。
盛り場だから湯女や酌女のたぐいが多いせいかなと思っていたが、たぶんそれだけじゃない。
街道筋の女は異性の経験値が異様に高い。
だから気をつけろと言われることになる。

列島改造はこの国のすみずみまで行き渡り、どこへ行くのだって日をまたぐというととはない。
だが、昔がちがった。旅人は基本的に街道を歩き、宿場から宿場へ徒歩で移動したのである。
旅人とは、無責任な存在だ。
かならずまた来るよという約束は反故にすればいいし、一旗あげるという大言壮語は実現可能性が伴わなくたっていい。
そんな旅人の戯れ言を、いちいち本気にとる。ふつうの女は、たぶんそうだ。
でも、街道筋の女はそうじゃない。
彼女は経験を積んでいく。
旅人に虚仮にされぬためにはどうしたらいいか。
人をカモにするにはどうしたらいいか。
それを知った彼女は、最早ふつうの娘ではない。だからこそ、街道筋の女に血道をあげるのはよせ、と言われたのである。

かつての街道が消え、宿場が消えると同時に、街道筋の女も絶滅した。
でも、かつて街道筋の女が持っていた精神性はなくなったわけじゃない。
それは生きている。たとえばナースの中に。

ナース、看護士というのは、病人の世話をするのが仕事だ。
そして、病人というのは、そりゃもう身勝手な存在である。
どこかがどうしようもない、だから病人なのだし、だから入院しているのだ。
下手すりゃ自分ひとりでトイレに行くこともできない。
そのくせ、プライドだけは高いのだ。
自分は治癒すれば十全だ。そう思っている。
あなたがそこにいるのは、治癒していないからなのに。病人はそれに気づけない。
病人とは、そんな哀れな存在である。

ナースは、そんな人に、笑顔で接する。
プライドをくすぐり、十全だった頃を思い出させながら、彼らの世話をする。
もちろん不機嫌なこともある。しかしそのときはそのときで、相手する方法がある。
いわば手球にとるわけだ。
仕事とはいえ、そのワザは本当にすごいなと思う。
女性である以上、言い寄られることも多々あるにちがいない。
でも、それで舞い上がったりはしない。相手は病人。そこが徹底しているのだ。
微笑みはあくまでビジネスの範疇。
それがどこまでも徹底されながら、それを感じさせることはない。

街道筋の女にたとえたりしているけれど、ナースのその能力、ぼくは凄いと思う。
感謝しているし、おおいに尊敬もしているのだ。



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病状六尺 5

06

病院のメシはまずい、とは衆目の一致するところである。
嘘じゃない。本当にマズイんだ。患者はみなブーブー文句を言っている。
でも、ここが肝要なのだが、多くの患者はそれを出されることを嫌がっているわけじゃない。
それはそれは楽しみに待ってるんだ。
わかるだろう、そうでなければ他に待つものがない。
病人とは待つものがおそろしく少ない者をいう。

森敦の『月山』に、寺守のじさま(爺さん)がつぶやくところがある。
「扇に切っても賽の目に刻んでも、大根は大根だ」
雪に閉ざされた月山注連寺、豪華なおかずを望んでも出す術がない。
さまざまな形に刻まれた大根は、いわば貧しさの隠喩であり、絶望の表現なのだ。

ところが、病院食で大根の味噌汁が出るとなれば、大根は普通に扇やら賽の目やらに刻まれて、一緒に入っている。
当然ながら味は通常の味噌汁で、とくに珍しいこともない。
そういうものを病人がズルズルとすするさまは、いろいろ考えるところも多かった。
でも、最近になってようやく思い当たったんだ。

病院食は学校給食とちがって、画一的でない。
病人にはさまざまな障害を持つ者がいる。
中には飲み下しに問題がある人もいるんだ。
それに対応するため、大根はさまざまな形に刻まれる。
扇と賽の目が一緒に入っているのは、両方とも食べられるからにすぎない。
それに気づいたときは、ちょっとした発見をしたように思ったね。

ときに、ぼくは味覚に障害を残したまま退院する。
早い話が味がまったくわからない。
あの真っ黒いアンコの味を味わう方法がないかとあれこれ悩んだけれど、結局のところ治癒するしか方法がないことに気づいて、ずいぶん落ち込んだ。
まあ、元々食には淡泊なのでいいんだけど、味がまったくわからないというのは、寂しいような気もちょっとする。



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